ゼロからわかる微分・積分



以前にも少し書きましたが、僕は物事の基礎、というか「なぜこうなるのか?」ということを自分自身が理解できないとなかなか前に進めないタイプの人間です。

”取扱説明書”は小さなころから必ず読んでいました的な。


大学院で分析の手法として、統計学や計量経済学と呼ばれる(僕にとっては非常に)高度な数学の知識が要求されるものを学ぶにあたっては、数学が苦手な僕は中学数学から復習をしました。


数学が苦手になった理由も、ほとんど言い訳に近いですが、「なぜこうなるのか?」を理解できないところが始まりでした。

例えば”自然数”は通常”n”と表記されますが、おそらく中学の時に教員からそのように指導されたと思います。

しかし、その説明には「なぜ”n”であるのか?」という理由がなく、「とりあえず”n”とします」とか、そんな感じだったはずです。

”n”というのは”Natural Number”と文字通りの意味の略なのですが、中学の時はそれが分からずに、「なぜ”a”ではいけないのだろう?」と思っていました。


このような簡単な例ならまだしも、高校数学、特に微分・積分の単元などでは、証明の難しさから「なぜこうなるのか?」を置いておいて、「とりあえずこうなる」というのを覚えさせられることがあります。

しかし、それでは上手く消化することのできない僕は、そのようなケースが増えるにつれて数学に苦手意識を感じるようになっていきました。


ということで今回は、「なぜこうなるのか?」を理解するための一冊を紹介します。


深川和久『ゼロからわかる微分・積分』ベレ出版、2006年。


タイトルからしていかにもの入門書ですが、「なぜこうなるのか?」という疑問が解決できることを一番のポイントとして選びました。


その理由(微分・積分学の基本定理)については、大学で学習することとして、高校の段階では触れられません。その理由を先送りすることは仕方ないのですが、先送りしたことが名言されないままであるところに問題があるわけです。


本書中にも僕が感じたものと同じような問題点が指摘されており、文字通りゼロから微分・積分について詳細な説明がされています。

さらに、数式は必要最低限のものしか用いられておらず、微分・積分の考え方を理解することにその主眼を置いています。

今さらですが、高校で微分・積分を習得する際に本書を併せて読むことができていれば、数学に対する苦手意識も感じることがなかったかもしれません。


基礎を固めることなしに、応用問題を理解することなどできません。
統計学や計量経済学を学ぶ上で、微分・積分の概念は非常に重要です。

また、それだけでなく微分・積分は我々の日常生活の至る所で有用な概念なのです。


身近なものとして現れたものを微分を使って記述できれば、そのもとの正体を知ることができるのではないか。


実は難解な数式や関数を解く為には、必ずしも数学の教養がなくても―「なぜこうなるのか?」を理解していなくても―答えを導くことは可能です。

コンピュータや表計算・統計ソフトの発達によって、一瞬で正確な答えを得ることができるからです。

しかしながら、「なぜこうなるのか?」を理解するということは非常に重要だと思います。

物事の一部を見るのではなく、全体を眺めることでそれをより良くする方法を発見するといった話はよくあることです。

例えば、分業して何かを生産しているとして、一度俯瞰で見ることによって全体の流れの非効率を発見し、それを改善することで生産の効率を高めることができる場合があります。

100ある作業の中の1つの工程しかしらずに、何かを改善することは難しいでしょう。

「なぜこうなるのか?」(全体)を理解することによって、新たな知見は生まれるのです。


微分と積分が複雑に絡み合った世界は、コンピュータの介在を超えた、尽きない世界なのです。 

落合博満を好きな理由



つい先日、念願叶って和歌山県太地町の落合博満記念館を訪れました。


僕は落合さんの大ファンなのです。


選手としても監督としても素晴らしい実績を持つ落合さんですが、実はファンになったのはそんなに昔のことではありません。

大学で経済学を学び、落合さんの考え方が非常に合理的だということが理解できるようになったことがそのきっかけでした。

つまり、落合さんの経済学的思考に共感したためです。


今回は、落合さんの名言から、その経済学的思考について考察してみます。



「うちは補強はしません。今の戦力なら10%の底上げで十分優勝する力を持っている。」


まずは2004年の監督就任インタビューでの一言ですが、この一言に落合さんの考え方の全てが凝縮されているような気がします。


①勝利・優勝という目標に対して、一貫して効率的・効果的な戦略を用いる。

②選手のことを深く理解し、信頼する。


まさしくこれらは経済学(行動経済学)の考え方と一致します。


効率的な資源配分の追求とその選択に関する学問が経済学であり、落合さんの采配や指導は、今ある資源(選手)を効率的に運用することで、利潤(勝利)を最大化するという経済学のセオリー通りのものなのです。

そして、それを実行する上で資源である選手という生身の人間に対し、どのように接すれば選手の内発的動機づけを促せるか―生産性をより向上させられるか―を考えています。

それはこの一言にも表れています。


「(その言葉が)その選手にとってプラスになるものなのか?マイナスになるものなのか?自分の感情だけで絶対に喋ってはいけない。」


監督に限りませんが、力のある人間の言葉は容易に人々の生産性に影響を与えます。

感情の赴くままにそういった人間が言葉を発することは、時として非常に大きな問題になりかねません。

ましてや、プロ野球選手の場合は長いシーズンを戦いますから、精神的な問題が成績に影響を与えるということは少なくありません。

落合さんは選手のことを深く理解し、信頼しています。


(英智選手の日本シリーズでの落球について)
「あいつが捕れないなら誰も捕れないさ。」


監督によってはミスを責めるということもあるでしょう。むしろ今の日本のスポーツ界(特に部活動)では、その方が多いかもしれません。

しかし、落合さんのこの言葉からは英智選手に対する強い信頼が感じられますし、落合さんは自らが責めずとも、ミスをした英智選手自身が一番自分を責めていることを分かっているのだと思います。

科学的にも根拠がありますが、鉄拳制裁などの強制手段では、人々は本来の力を出し切れません。
このミスに対する落合さんの一言は、将来(次の試合)を視野にいれた最高の声のかけ方だと思います。


「勝つことが最大のファンサービス。」


また落合さんは、単調で面白くない野球と言われようが勝利を最優先していました。
なぜなら、ファンにとっては試合に負けることが一番つまらないことだと思っていたからです。

落合さんのこのやり方には否定的な意見もありましたが、長期的に見ればゲーム理論から他球団も同じ戦略を取り、今以上に高いレベルでの競争が生まれることによって、日本プロ野球界の底上げに繋がるのではないかと考えられます。


落合さんは常に長期的に物を考え、優勝という目標に対して効率的に行動します。

まさに経済学における利潤の最大化であると言えます。


途上国の農村開発の分野においても、その村自体が持つ自然や人材、または人々の結び付きなどに注目し、外からの援助に頼るのではなく、元から持っているものを改善して発展していくということは非常に重要です。

いわゆる戦後日本の生活改善運動と同じことです。

これらの取組みは中南米等で再評価され、女性の社会進出などにも貢献しています。


畑は違えど、落合さんは”発展(成長)”とは何なのか、またどのようにそれを手助けできるのかについて分かっていたのでしょう。

現在の開発において必要とされているのは、巨額の資金援助や意味の無いプロジェクトなどではなく、落合さんのように現場をしっかりと理解し、効率的なちょっとした手助けなのです。

続・宅飲みは割り勘にするのが吉



ブログの機能で便利なのは、どの投稿が人気なのか、その投稿の表示回数によって分かるようになっているところです。

さらに、検索エンジンを使った場合、どのように検索されて投稿に辿り着いたかも分かるようになっています。


それらの機能の良いところは、読んでくれた人と発信する側の双方向的なコミュニケーションが可能になるという点です。

発信する側としては、何か目的があって投稿に目を通してくれたのかということが分かりますし、それに対して、さらなる投稿を通じてリアクションすることができます。


そして現在、断トツで人気のある投稿が、「鳥飼誠一の正義論」「宅飲みは割り勘にするのが吉」の2つです。

「鳥飼誠一の正義論」の方は、言うまでもなく踊る大捜査線効果です。当たり前なのですが、すごいですね。
機会があれば、さらに詳しく考察したいと思います。


そして、「宅飲みは割り勘にするのが吉」の方はと言うと、「割り勘の非効率性 経済学」という風に検索されているようです。

どうやら、大学のテストか何かで割り勘の非効率性を経済学的議論によって解かなければならないようです。


これこそ双方向的なコミュニケーションのチャンスです。

グーグル先生に尋ねた結果僕の投稿に辿り着き、割り勘の非効率性について知りたいのに、割り勘にした方が良いなどと書かれていて混乱してしまうかもしれません。


そこで今回は、「割り勘が非効率であることを説明せよ」という問題に対しての経済学における回答を記しておきたいと思います。


まず最初に断っておくべきことは、僕の割り勘が吉という主張は、”宅飲み”という特殊な状況から述べられているということです。

そのため、心理学の要素を加味した行動経済学の分析を行うと、”宅飲み”においては割り勘すべし、となったということです。


では本題に入ります。


この問題を解く為には、ミクロ経済学のゲーム理論を用いなければなりません。

割り勘という状況はまさに”共有地の悲劇(The Tragedy of the Commons)”であると考えられます。

つまり、全員が自己の利益を追及した結果、全員にとって不利益な結果を生んでしまう、というケースであるということです。

割り勘ということで一人一人は料金が抑えられると思って、各々が過剰に注文してしまい、その結果、合計料金が意外にも高くなってしまった、ということはないでしょうか。

まさにこの状況が非効率であるということです。


また、割り勘の相手が”親しい友人”か”この先会うこともない人”かでどのような違いがあるでしょうか?


”親しい友人”はゲーム理論で言う”繰り返しゲーム”、”この先会うこともない人”は”1回限りのゲーム”ということです。

これらの違いは”囚人のジレンマ(Prisoner's Dilemma)”によって説明されます(以下図)。


”1回限りのゲーム”、つまり”この先会うこともない人”ならば、お互いにとって取るべき戦略は”裏切り”、ここでは好きな物を注文しまくるということになります。

それが、”親しい友人”の場合は”繰り返しゲーム”ということになりますから、左図のような利得表も配点が変更され、お互いにとって”裏切り”は最適な戦略ではなくります。

ここではお互いセーブして注文するというのが良い戦略ということになります。


以上が経済学に則った、割り勘が非効率であることの回答です。


簡単にまとめると、

①割り勘という状況は”共有地の悲劇”であり、各人が自己の利益を追及した結果、全員にとって不利益な結果を生んでしまう。つまり、割り勘ということで一人一人は料金が抑えられると思って、各々が過剰に注文してしまい、その結果、合計料金が高くなってしまう。

②”親しい友人”と”この先会うこともない人”の違いは、”囚人のジレンマ”構造における、”繰り返しゲーム”と”1回限りのゲーム”の違いであり、前者の場合、協調すること(注文を抑える)が最適戦略になり、後者の場合、裏切り(注文する)が最適戦略になる。


前回の「宅飲みは割り勘にするのが吉」との違いは分かって頂けたでしょうか?


”宅飲み”という特殊な条件の下においても、確かに買い出し時に安上がりを見越して高い物を買ってしまったり、量を買いすぎたりするでしょう。

しかし、僕が主張したのは、元来”宅飲み”は安上がりなので、そのような結果(非効率)を伴った場合、傾斜的な支払いをすべきではないということです。

心理学的な要素を加えると、非効率に対してさらに不平等感という非効率を加えてしまうことになりかねない、ということです。

つまり、”元来安上がりである”というところがポイントということです。


今回のように、たまには(勝手に)リアクションを伴った投稿ができればと思います。

割り勘の非効率性は定期的に検索されているようなので、今回の投稿が未だ見ぬ誰かの役に立つこと、それから日常生活に役立つ経済学に興味を持ってくれることを願います。

「30分遅れます」は何分待つの?経済学




趣味の読書ですが、基本的には自分の専門や関連する分野の本を読みます。

しかし、難しい専門書や分厚い本ばかり読んでいると疲れてしまうので、休憩がてらあまり専門とは関係の無いものや単純に興味を持った本(だいたい薄くてすぐ読めるもの)も読みます。


最近で言えば、前回の書評の『論理が伝わる世界標準の「書く技術」』や、有名なお坊さんの自己啓発本などを読みました。

ということで今回は、先日読み終えたばかりのこの一冊を紹介したいと思います。


佐々木一寿『「30分遅れます」は何分待つの?経済学』日本経済新聞出版社、2012年。


タイトルから分かるように、日常生活中における経済学的な事例を平易に説明したもので、古典的なものから比較的最新の経済学まで、そのエッセンスを感じることができます。

僕自身、以前の投稿で日常生活における便利な経済学について書いていたので、このような類の本は好みで、気になっていました。

本書にもある通り内容はかなりザックリしているので、経済学の入門書というよりは読み物と捉えて読む方が好ましいと思います。


そのためか、眉唾物な(僕には理解することができなかった)個所が見られました。

本書のタイトルにも使用されている、”「30分遅れます」と連絡が入った時、こちらは何分待つ準備をするべきか”という時間管理の問題に対して、著者は”乗数効果”によってその時間が割り出せるとしています。

乗数効果の説明を本書から引用すると、


乗数効果とは、ある需要に対して投資した時に、その投資額のウン倍もの効果を生み出すというマクロ経済的な現象が一例としてあります。


この乗数効果のメカニズムが時間管理にも応用できるとしています。


本書の例を引き合いに出すと、蕎麦屋の出前で、60分間の見込みで「あと30分」という時、実際の所要時間は乗数効果を用いると、

60+30+15+7.5+3.75+・・・・・60×0.5^n で、120分という答えが出ます。

すでに過ぎた60分を引くと残り60分で、つまり「あと30分」という時は、60分の時間がかかるということです。

この一例を見ただけでも、若干の違和感を感じます。
(60分の見込みであと30分と言って、60分も遅れてくる蕎麦屋など見たことがありません。)


何故、時間管理の問題に対して乗数効果を使うのでしょうか。


経済学における乗数効果とは、本書にもある通り”お金は使えば増える”といった経済現象において見られるものですから、それを時間管理に応用するのならば、それに対する論理的な説明をするべきだと思いました。


また、納期(時間)を守らせる―例えば夏休みの宿題を期限内に終わらせる―為にどうすべきか、という点で著者は、


これを防ぐ方法の1つには、開始日をコミットしてもらう、という方法があります。やり始めるまでグズグズして時間をロスする、ということを防ぐためです。また、開始日をコミットしてもらったら、その次には、何日後にできそうか、をコミットしてもらいます。これが実質的に締切日になります。


とありますが、人間に双曲的な傾向があることを考えると、これでは上手くいかないこともあるかもしれません。

おそらく開始日が来るまではその日から行うと決めていても、実際に開始日が来ると明日から…というように先延ばしにしてしまいます。

(これが前提だと思いますが)運良くコミットが実行されたとしても、大量にある夏休みの宿題を計画通りに進めることができるのでしょうか?


これに対して、現在の行動経済学で推奨されているのは、目標を小さく区分けする”段階アプローチ”と呼ばれるものです。

本章で提案されている方法と併せて、小さく区分けした目標の開始日と終了日をいくつもコミットするのがより良いと考えます。



今回の書評では批判的な部分を中心に述べましたが、読み物として面白かったですし、こういう本を読むことでアイデアが閃いたり、自身の精査の目を養うことができると思います。

何より息抜きに読む本としてはとても良かったです。

もし、本格的に学んだり、研究などに用いたいと考えるなら、その本が学者によって書かれたものなのかに注視する必要があります。


「この次は何を読もう」、と考えるのが読書の楽しみの1つだと思うのですが、考えると、厚い専門書を読んだ後に薄い簡単な本を読むのも、ある意味読書を楽しく続けるためのコミットメントなのかもしれません。

面接官に予測能力はあるか?



未だ見ぬ就職活動には日頃より戦々恐々としていますが、周りを見る限り、決まる人と決まらない人の間には1つの大きな違いがあると思います。

それは、その人が有能であるか否かということです(当たり前ですが…)。

肝心なのは何をもって有能かということです。
僕は、その条件を自制心と観察力があることだと考えています。


例えば、有能な人は自制心があるので物事を先延ばしにしません。

人間には、現在に近い報酬を遠い将来の報酬よりも高く評価する傾向―双曲割引と呼ばれる―があり、つまり夏休みの宿題を今日から始めればいいものを、どんどん先延ばしにしてしまいます。

有能であるということは、必ずしも惑わされない人のことを言っているのではありません。
むしろ、その誘惑に抵抗できる人を指しているのです。

そのような人たちは、メールの返信を先延ばしにしませんし、飲み会の幹事を任せたらすぐに行動を起こします。

その結果、メールや飲み会に限りませんが、何事においても(時間を十分に使えるので)質の高い結果を出すことができます。
反対に自制心が弱い人たちにとって、エントリーシートや企業研究は夏休みの宿題のようなものです。


有能であるもう1つの条件は観察力があることです。

観察力のある人は、自分が現在何をすべきなのか明確に理解しています。
つまり先読みができるということなので、無駄を省き、リスクを回避することができます。

先読みできる(気付いてしまう)が故に、人より多くの仕事をこなさなければなりませんが、全体像を把握することができるので、全ての場面において重宝されます。

そのような人たちは、何かを頼んでも要求以上の仕事をしますし、その場の雰囲気で適切な行動を理解することができます。

その結果、いわゆる”使える”人材として上司や先輩に好まれ、安心して仕事を任せられる人間であると認識されます。
反対に観察力が無い人たちは、当たり前に行うべき仕事や自分のちょっとした失言に気付くことができません。


以上の条件を満たす人ほど、就職活動において良い結果を残しているように思えますが、実際に企業の面接官は企業にとって役に立つ人材が誰かを正確に判断できるのでしょうか?


多くの実証研究が示すところによると、企業幹部がそのような判断が得意であると答えるのとは裏腹に、人間は一般にこうした作業に向いておらず、面接担当者の予測能力はほとんどゼロに近いことが分かっています。

実験によれば、面接をせずに履歴書や推薦状、志望動機の作文などだけで採用を決めるほうが、面接もして決めた場合より結果として良い人材を採用できるそうです。

面接をすることで面接官は自分の判断により自信を持つようになりますが、現実の成果としては逆に作用してしまいます。
要するに、面接官の直観はほとんど当てにならないということです。


それでは、先述の有能な人々が結果を残しているというのは、単に思い過ごしなのでしょうか?


そうではありません。
面接官の判断は当てになりませんが、有能な人々はそこに至るまでに最善を尽くし、また環境的な要因から、彼らは自信を持って面接に臨みます(self-efficacy)。

そのたたずまいや声の調子から、面接官は直観が関与することのできない、脳のもっと深い奥の部分で―無意識的に―彼らを選択してしまうのです。


それは、結局は面接官の判断が正しいということでしょうか?


そうではありません。
現実に就職できるのは有能な人だけではありませんし、有能な人だけが企業で結果を残す訳ではありません。

つまり面接官の直感では、その大多数の人々を判断する上で過ちが生じてしまうということです。

例えば、縁の下の力持ちタイプの人は、集団内における円滑性という点などで非常に重要であり、企業の原動力とも言える存在です。
そのような貴重な人材を、面接官の直観は正確に判断することができません。


初対面の人に対して抱く印象が、その人の全てでは無かったという経験は誰にでもある日常的なことだと思います。
また、外見的特徴が全面的に出る面接という行為において、あらゆるバイアスから逃れることは困難です。

そのような状況において、自信を持って「正しい判断ができる」と果たして言えるでしょうか?

マスメディア懐疑論



昨日、修理に出していたスマホが戻ってきたという連絡を店舗の方から受けました。

その際に、「お貸出ししていました”だいがえき”をお持ちください」、と言われました。

「おいおい、”だいがえき”じゃなくて”だいたいき(代替機)”だろう」と思ったのですが、
「あれ?もしかしたら、専門用語でそう呼ぶのかな?ひょっとすると…」

すぐに調べましたが、そんな訳はなく普通に”だいたいき(代替機)”でした。


職業柄、日常的に使う言葉を間違えて覚えていることは恥ずべきことですが、それ以上に僕は自分に自信が持てなかったことが残念でした。

言い訳をするならば、相手の方がそれに関してのエキスパートであり、また、オペレーターが間違える訳がないという先入観があったことです。


先入観によって、大した精査もされず我々の目や耳に入る情報はたくさんあります。


マスメディア(主に新聞やテレビ)による報道は、その最たるものだと思われます。


特に、今でこそ下火になりましたが、昨年の領土をめぐる中国や韓国との対立問題におけるマスメディアの報道の在り方には疑問を感じるばかりでした。

例えば、以前より減少傾向にあった日中間の貿易や、全く関係の無い理由で起こったデモを、今回の対立問題と結び付けるような記事が目立ちました。


少し話の本流から逸れますが、以下は日本と中国の海外旅行者数の推移を表したグラフです。




日本人の旅行者数は左図の青線で表されています。

2つを比べて何がわかるでしょうか。

僕は中国のグラフを見て、少し違和感を感じました。
グラフがとても綺麗な右肩上がりになっているのです。

ここで日本のグラフをあえて出したのは、一般的な傾向を見るためです。

このような統計では、少なからず2008年や2009年に、リーマンショック以降の世界的な金融危機の影響が表れます(ちなみに日本の2003年の激減はSARSの影響)。

しかしながら、中国の統計は成長を誇示するかのように完璧な右肩上がりです。
このような統計には、中央政府による情報操作が入っている可能性を疑うべきです。


右図は新聞記事から引用したものですが、このような情報が何の疑いもなく掲載されています。

我々は子供の頃から教育現場において、新聞を読みなさい、ニュースを見なさい、と教えられているので、多くの人は新聞やニュースの情報が誤りである可能性などほとんど感じていません。


『日本農業への正しい絶望法』の中で、著者の神門善久は、マスメディアの大衆迎合的な性格が日本農業の衰退を助長していると指摘しています。



さらに、マスメディアは公共的精査を通して互いの正しい認識・現状に対する深い理解を促進します。
これは、アイデンティティの単一的な矮小化を避ける上で非常に重要な役割を果たすことを意味します。


本来的にそういったことが期待されるマスメディアが、現状において逆のベクトルに働いてしまっていることは悲しむべきことです。

マスメディアが大衆迎合的であるということは、我々にも一因があるということです。
中国に対する偏重的な報道などは、そればかりが理由ではないと思われますが、我々にもより高いリテラシーが求められます。


メディア関連の仕事をしている人たちの職場環境はどうなんでしょうか。
原稿の締め切りに追われて、事実の正しさは最優先ではないかもしれません。

そう考えると、職種は違えど忙しすぎて、”だいがえき”が間違えていることに気付いていないか、まさか、顧客にとってその方が分かりやすいと思って、わざと”だいがえき”と言っている可能性がありますね…

be different from ―東大生編―



東大を初めて訪れた時に驚いたのは、その規模の大きさです。

まず、とにかく敷地面積が広い。
地図アプリで見ると、なんとその隣の上野公園(上野動物園、不忍池含む)と同じくらいあるではないか!なんかすごい!

さらに驚きなのが、構内の飲食店の数。
学食以外にレストランやカフェがたくさんあります。有名コーヒーチェーンだけで、ドトールが2つもあるし、タリーズ、スターバックスまであります。スタバが1つも無い”県”もあるというのに…

大学院から東大へ入学した僕には、驚くことばかりの毎日です。


そこで今回は、be different from ―東大生編― と題しまして、東大生と他の大学の学生との違いについて取り上げたいと思います。

あくまでも僕個人の考えになりますが…


「学業」

普通は?、休講だったり講義が早く終わるとちょっと嬉しいですよね。

東大生の場合は逆です。

休講には不平を並べるし、講義が早く終わって教室がざわつくのは、早く終わって嬉しいからではなく、早く終わったことに不満があるからなのです。


また、空き時間の使い方についても違いが見られます。

少し早く教室に着いたら、僕は大抵の場合スマホをぼーっと眺めています。

しかし、東大生は新聞や本を読んでいるので、僕は恥ずかしくなってスマホをしまい、講義の復習をすることにしています…


さらに、東大生は基礎をかなり重視します。

講義に対する感想を述べる時によく耳にしたのが、「もっと基本的なことを教えてほしかった」ということでした。
また、就職する院生の話を聞くと、「外資もあったけど、日本の大手にした。基礎を叩き込んでくれるからね」、とのこと。

確かに、僕も基礎はかなり重視するタイプなので、少し共感しました。


「電子機器」

東大生の7、8割は、講義のノートをパソコンやiPad等で記録します。

学部の頃の大学では、パソコンなどを持ち込んでいる人はいなかったし、いても数人程度でした。

教員側の考え方も多少違うのか、例えば、パソコンや携帯を机の上に出していることを嫌う方もいますが、東大の教授ではまず見たことがありません。


「コミュニケーション」

僕が最も驚いたのは、大学院のゼミでの初めての飲み会でした。

一人ずつ順番に英語でストーリーを考えて話を作る、というゲームをした時は、来るところまで来たなと感じたものです。


そして、最も大きな違いは、話をする時の慎重さです。

知識が豊富な人と話す時は、簡単に物事を言いきることができません。

相手の得意な分野に関しては、まず下手なことは話せませんし、自分の分野に関しても、曖昧なことや憶測で物を述べると、当然追及される(または呆れられる)ので、極力失言がないように慎重に話さなければならないのです。



何やら偏見に満ち溢れた3つの違いをまとめてみましたが、同時に意外とステレオタイプの学生は少ないという印象も受けました。

また、上では特に述べませんでしたが、違いの1つとしてself-efficacy(自己効力感)が挙げられると思います。

self-efficacyとは、自己に対する信頼感や有能感のことで、「自分にはここまでできる」という予測の程度のことを言います。

self-efficacyは達成体験などの経験によってもたらされるので、東大生と他の大学の学生では、その高低に違いが見られます。

それは、他の大学の学生のself-efficacyが特別低いという訳ではなく、東大生の場合、もとより高いself-efficacyが、東大生であるという矜恃によって一層強められるのです。


近年、東大生の学力低下が叫ばれていますが、その一因とならぬよう、未だお客さん気分の抜けない僕ですが日々精進したいと思います。

論理が伝わる世界標準の「書く技術」



最近、文章を書く上での難しさを感じさせる出来事が2つありました。1つ目は、ブログでの改行のタイミングや空白行の数についてです。そして2つ目は、大学院での英語論文の書き方の指導でのことです。

1つ目の難点ですが、ブログを始めるにあたって文章を書いていると、改行をいつ行ったらいいのか、またどれぐらい行間をとったらいいのか、ということに悩まされました。ブログという不特定多数の人々へ発信する読み物的文章を書いた経験が無かったことがその理由であると思われます。その経験不足を補うために、他の人のブログをいくつか参考にしましたが、基本的には段落や改行を多く作り、読みやすさを重視している印象を受けました。

2つ目の難点ですが、先日大学院で留学生が論文のアブストラクト(論文の総論)を発表したところ、指導教員に、アブストラクトの構成がおかしいので、言いたいことが伝わってこないとの指摘を受けていました。正しく構成された文章を書くことは、内容以前の問題であるということを感じました。

以上の2つは、どちらも正しく構成された文章を書くことの難しさを表しています。2つの違いは、文章を書くことの目的が違うことです。ブログは読み物ですから、したがって論理的に書くというよりは、視覚的な読みやすさを重視する傾向にあります。しかし、アブストラクトの場合は、内容が分かりやすく正確に伝わるように論理的に書かなければなりません。

論理的な文章を書くためには、パラグラフ・ライティングと呼ばれる世界標準の文章技法を身につけなければなりません。パラグラフ・ライティングは、欧米では学校の授業として習うだけでなく、学問の一分野であるぐらい一般的な文章技法です。

しかし、その文章技法を学ぶ機会が日本人には無く、ほとんど全員パラグラフ・ライティングができません。おそらく、アブストラクトの指導を受けた留学生も、母国でパラグラフ・ライティングの授業がなかったのでしょう。


実はここまで、パラグラフ・ライティングを用いて書かれています。論理的に話が進んでいたでしょうか?

ただ、やはりブログなどの読み物には適していないということも証明されたような気がします。
なんだか詰まっている印象を受けて全体的に読みづらかったかもしれません。

しかし、学問やビジネスの世界では、パラグラフ・ライティングは有効です。むしろそれが標準なのです。
したがって、大学院を目指す方はもちろんですが、社会人もパラグラフ・ライティングを身につけなければなりません。

今回は、そのパラグラフ・ライティングの入門書の書評です。


倉島保美『論理が伝わる世界標準の「書く技術」』講談社、2012年。


パラグラフでは、1つのトピックを1つのレイアウト固まりで表現します。パラグラフは、段落や階層とは異なります。


パラグラフを使うことによって、文章が相手に伝わるための条件である、

①大事なポイントが30秒で伝わる
②詳細もごく短い時間で読める
③内容が論理的で説得力を持つ

の3つを満たすことができます。

パラグラフと段落は似ていますが、パラグラフの場合、1トピック限定で、文の先頭に要約文を置くところに違いがあります。

段落の概念があるおかげで、日本人はパラグラフ・ライティングに近い文章を書くことはできますが、それでは十分ではありません。


パラグラフ・ライティングを用いるためには、以下の7つのルールに従います。

①総論のパラグラフで始める
②1つのトピックだけを述べる
③要約文で始める
④補足情報で補強する
⑤パラグラフを接続する
⑥パラグラフを揃えて表現する
⑦既知から未知の流れでつなぐ


論文のアブストラクトは総論と同じですから、①の詳しいルールに従って書かなくてはなりません。実際に本書で述べられていることと、教授の指導内容は一致していました。

つまり、アカデミックな場ではパラグラフ・ライティングができていなければ、内容を読んでもらうところまで進むことができないのです。


そして、本書自体がこの7つのルール(パラグラフ・ライティング)に従って書かれているので、非常に読みやすく、ロジックも明快で、比較的丁寧に読んでも数時間で読み終わります。



伝わる文章は、たとえ詳細説明の部分であっても、ごく短時間で読めます。時間をかけて読まなければならないのでは、伝わる文章とは言えません。


このような入門書の類を大学院へ進学する前に、または社会に出る前に読んでおくことは非常に重要です。
レベルの高い世界であればあるほど、このような基本的技術は前提条件になっていることが多いからです。

大学院の入試や就職活動において、ほとんどの場合、書類選考があると思いますが、その時にいかに相手に内容を伝えるかが大切です。
しかし、正確な書き方をしていないと、書き方の時点で差がついてしまいます。逆を言えば、良い書き方であるだけで、相手の目に止まり、印象を残すことができるのです。

ましてや、選考する側は大量の書類に目を通さなければならない場合もあるので、その数が多ければ多いほど、短時間で伝わる文章を書く必要性があります。



伝わらない文章を書いてしまうのは、たくさん書けば自然と身につくと思い込んでいることも原因です。文章はたくさん書いても上達しません。


経験を方法論に落とし込むプロセスが大事なのです。

ただ、ブログの改行と空白行の数については、これからも悩みそうです…

僧侶の”生き方”の選択



(日本の)仏教における教育現場では、しばしば僧侶とは”職業”ではなく”生き方”である、と教えられます。

例えば、(何でもよいのですが)医者という職業なら個人の人間としての境界を業務時間内であるか否かによって分けることができます。

しかし、僧侶はそうではなく、生活の全てにおいて僧侶らしい振る舞いが求められます。
話し方や食事作法、歩き方や外見的特徴に到るまで僧侶であることを自覚し続けなければならないのです。


往々にしてこのような話を聞くたびに、僕はどうしても違和感を感じてしまいます。


第一に、前回の投稿で、社会に見られる黙認された明らかな不正義についての話をしましたが、多くの指導する側の僧侶たちは、(完璧でなくとも)そのように振る舞うことに最善を尽くしているでしょうか。

そして今回主張したいこととして、第二に、一人の人間のアイデンティティが単一基準であるということは有り得ないということです。さらにそれだけでなく、アイデンティティの矮小化は悪質な影響を及ぼし得るということです。


生活における意志決定は、あらゆる帰属先や関係によって影響を受けるものであって、宗教だけによるものではありません(そして、そうであってはならないべきだと思います)。

したがって、僧侶であるというアイデンティティのみを基準として優先事項や行動を決めるといった”幻想”は、その人自身の在り方を見誤ることになります。


僕自身は、僧侶であることに加えて、大学院生であり、経済学や国際協力学を学んでいて、アジア人で、日本国民であり、リベラル主義者の男性であって、好きなNBAのチームはレイカーズである、などという複数のアイデンティティをなんら矛盾することなく持っています。

実際、(日本の)仏教の内部においても宗派や先達によって教義や信条に相当の差異があり、何をもって”生き方”とするのかということに決まりはありません。

それに対して、単一的に僧侶を規定することで導かれるのは画一化であり、それは僧侶や仏教に対する誤った見方を助長するだけでなく、本来多種多様である僧侶の生き方を否定することになります。


また、宗教に関するそのような誤った見方と分類は、宗教対立を扇動する一因となりかねません。
人々の多様性を度外視した単一的な分類によって、その他の部分で人々が共有しているアイデンティティの存在は無視されてしまいます。



アイデンティティにおける単一基準的な考え方のもっと身近な例は、開発途上国を訪れた人たちの感想によく見られます。

「ラオスの人々は常に笑顔で、本当の幸せとは何かについて考えさせられた。西洋的な価値観を押し付け彼らの文化を破壊してはならず、あの街並みや静かな雰囲気を残すべきである。」

初めて開発途上国を訪れて、誰もがこのように感じるところはあると思います。
しかし、我々は途上国の人々についての理解をより深めるべきです。

彼ら(ラオスの人々)を特定の分類法によって、単一的なアイデンティティ―今の暮らしに満足しており、静かな街並みを好む、親切な人々―のに閉じ込めてしまうことは、その国の本当の意味での発展を考える上で適切ではありません。


このような話は、信じ難いことにスターバックスでコロンビア産のコーヒーを飲みながら、iPad片手に行われているのです。

極端な話ですが、彼らにテレビの購入の支援をすると申し出れば、彼らはもっと笑顔になるかもしれません。
彼らが精神的に満足しているなどと考えるのは、彼らのことを本当に理解していないためです。

そして最も重要な点は、西洋的な価値観と呼ばれるもの自体、その基盤は世界の多様な国々からもたらされた貢献に深く影響されたものだということです。

文化の交流は決して単方向的ではないですし、彼らの多様性にもっと理解を深めなくてはなりません。



我々は複数のアイデンティティを持ち、それを自由に選択できるべきであるし、そのような社会が実現されるべきだと思います。


僧侶の”生き方”は認識するのではなく、選択するものなのです。

鳥飼誠一の正義論



踊る大捜査線が好きです。


人気の高い作品なのでアンチという方もいると思いますが、今回改めてなぜ踊る大捜査線が好きなのか考えてみると、この作品は非常に示唆に富むセリフやシーンが多く、普通の刑事ものドラマとは異なった視点でも楽しめる点が挙げられます。


例えば、いかりや長介さん演じる和久さんの名言の1つに、「正しいことをしたかったら偉くなれ」というものがあります。

下っ端は上からの命令に従うことしかできない、ということを嘆いたセリフであって、ありきたりと言えばそうですが、現実社会の理不尽を如実に表現していると思います。

ドラマの場合は権力による強制ということですが、肩書きも”存在しない偉さ”を作り出します。

極端な話になりますが、大学教授とホームレスが全く同じ主張をしても、納得する人数の差に違いが現れます。

これは僕が東大の大学院を志望した理由の1つでもあります。
”東大生”というだけで、多くの人が(他の場合より)聞く耳を持ってくれるのです。お得です。


例を出したら切りがないので、本題に入りたいと思います。



踊る大捜査線の中で最も好きな登場人物が、小栗旬が演じる鳥飼誠一です。

劇場版の三作目から登場し、昨年公開された劇場版FINALでは警察官でありながら犯行グループの1人として悪事に手を染めてしまいます。


そんな鳥飼の正義に対する考え方に僕は非常に共感を抱きました。
(殺人に加担したり、犯罪者は皆死罪にすべき等、もちろんそこまで過激ではありませんが…)


鳥飼は過去に起きた事件によって、「絶対に悪を許さない」という信念の下に行動しています。

FINALでは、その矛先は自らの保身を優先する隠蔽体質の警察上層部に向けられます。
そして最後には、マスメディアに対して告発状を送ることで警察上層部の不正を暴き、自らも逮捕されるという結末を迎えます。


鳥飼は警察組織の中にありながら、全く機能していない警察組織というシステム(そしてそれを変えることが出来ない政治に対しても)に絶望しています。


鳥飼の考える通り、警察組織に限らず世の中には明らかな不正義が溢れています。

なかなか知る機会もないと思いますが、お寺も”宗派”(大きく考えれば日本仏教)という組織に属しています。
一般の方が考えるより組織的で、権力構造も伝統や宗教という影に隠れて強力です。

おそらくどの社会にも、強権的で明らかな不正義があるのだと思いますが、だからと言ってそれは不正義が存在して良い理由にはなりません。

特に、鳥飼の属する警察や善事を心がける仏教においては、本来的に不正義があってはならないはずです。


自分自身がそれらの組織に属することで、明らかな不正義は慣習化し、それを防ぐルールも形骸化してしまうのではないでしょうか。
また、組織に属するということは権力構造の一部に組み込まれるということなので、それが仕事で生活に関わっていようものなら、上層部の命令は絶対ということになります。


仮に反発したとしても、出る杭は打たれるというように、それこそ明らかな不正義によって潰されてしまいます。

それが分かっていた鳥飼は、ある程度の地位まで出世した後に行動を起こしたのだと思います。

鳥飼が犯した罪は決して許されることではありませんが、鳥飼が考えていたことには共感できます。
優秀な鳥飼はそのまま口を噤んでいれば、将来的には上層部の一員になっていたかもしれません。
しかし、鳥飼は自らの心に嘘はつけなかったのです。



独裁国家のような性質が先進国の組織の中にも存在するとすれば、殺人を教唆した黒幕の鳥飼は、コンテクストを変えれば、殺人を教唆したが政治体制を変えたヒーローという風にも考えられます。

ちなみに、鳥飼と同じ手段では、独裁国家においては組織の体制を変えることはできません。なぜなら言論の自由、自由なメディア活動が制限されているからです。


踊る大捜査線は、民主主義におけるマスメディアの役割の重要性まで教えてくれるのです。
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