論理が伝わる世界標準の「書く技術」



最近、文章を書く上での難しさを感じさせる出来事が2つありました。1つ目は、ブログでの改行のタイミングや空白行の数についてです。そして2つ目は、大学院での英語論文の書き方の指導でのことです。

1つ目の難点ですが、ブログを始めるにあたって文章を書いていると、改行をいつ行ったらいいのか、またどれぐらい行間をとったらいいのか、ということに悩まされました。ブログという不特定多数の人々へ発信する読み物的文章を書いた経験が無かったことがその理由であると思われます。その経験不足を補うために、他の人のブログをいくつか参考にしましたが、基本的には段落や改行を多く作り、読みやすさを重視している印象を受けました。

2つ目の難点ですが、先日大学院で留学生が論文のアブストラクト(論文の総論)を発表したところ、指導教員に、アブストラクトの構成がおかしいので、言いたいことが伝わってこないとの指摘を受けていました。正しく構成された文章を書くことは、内容以前の問題であるということを感じました。

以上の2つは、どちらも正しく構成された文章を書くことの難しさを表しています。2つの違いは、文章を書くことの目的が違うことです。ブログは読み物ですから、したがって論理的に書くというよりは、視覚的な読みやすさを重視する傾向にあります。しかし、アブストラクトの場合は、内容が分かりやすく正確に伝わるように論理的に書かなければなりません。

論理的な文章を書くためには、パラグラフ・ライティングと呼ばれる世界標準の文章技法を身につけなければなりません。パラグラフ・ライティングは、欧米では学校の授業として習うだけでなく、学問の一分野であるぐらい一般的な文章技法です。

しかし、その文章技法を学ぶ機会が日本人には無く、ほとんど全員パラグラフ・ライティングができません。おそらく、アブストラクトの指導を受けた留学生も、母国でパラグラフ・ライティングの授業がなかったのでしょう。


実はここまで、パラグラフ・ライティングを用いて書かれています。論理的に話が進んでいたでしょうか?

ただ、やはりブログなどの読み物には適していないということも証明されたような気がします。
なんだか詰まっている印象を受けて全体的に読みづらかったかもしれません。

しかし、学問やビジネスの世界では、パラグラフ・ライティングは有効です。むしろそれが標準なのです。
したがって、大学院を目指す方はもちろんですが、社会人もパラグラフ・ライティングを身につけなければなりません。

今回は、そのパラグラフ・ライティングの入門書の書評です。


倉島保美『論理が伝わる世界標準の「書く技術」』講談社、2012年。


パラグラフでは、1つのトピックを1つのレイアウト固まりで表現します。パラグラフは、段落や階層とは異なります。


パラグラフを使うことによって、文章が相手に伝わるための条件である、

①大事なポイントが30秒で伝わる
②詳細もごく短い時間で読める
③内容が論理的で説得力を持つ

の3つを満たすことができます。

パラグラフと段落は似ていますが、パラグラフの場合、1トピック限定で、文の先頭に要約文を置くところに違いがあります。

段落の概念があるおかげで、日本人はパラグラフ・ライティングに近い文章を書くことはできますが、それでは十分ではありません。


パラグラフ・ライティングを用いるためには、以下の7つのルールに従います。

①総論のパラグラフで始める
②1つのトピックだけを述べる
③要約文で始める
④補足情報で補強する
⑤パラグラフを接続する
⑥パラグラフを揃えて表現する
⑦既知から未知の流れでつなぐ


論文のアブストラクトは総論と同じですから、①の詳しいルールに従って書かなくてはなりません。実際に本書で述べられていることと、教授の指導内容は一致していました。

つまり、アカデミックな場ではパラグラフ・ライティングができていなければ、内容を読んでもらうところまで進むことができないのです。


そして、本書自体がこの7つのルール(パラグラフ・ライティング)に従って書かれているので、非常に読みやすく、ロジックも明快で、比較的丁寧に読んでも数時間で読み終わります。



伝わる文章は、たとえ詳細説明の部分であっても、ごく短時間で読めます。時間をかけて読まなければならないのでは、伝わる文章とは言えません。


このような入門書の類を大学院へ進学する前に、または社会に出る前に読んでおくことは非常に重要です。
レベルの高い世界であればあるほど、このような基本的技術は前提条件になっていることが多いからです。

大学院の入試や就職活動において、ほとんどの場合、書類選考があると思いますが、その時にいかに相手に内容を伝えるかが大切です。
しかし、正確な書き方をしていないと、書き方の時点で差がついてしまいます。逆を言えば、良い書き方であるだけで、相手の目に止まり、印象を残すことができるのです。

ましてや、選考する側は大量の書類に目を通さなければならない場合もあるので、その数が多ければ多いほど、短時間で伝わる文章を書く必要性があります。



伝わらない文章を書いてしまうのは、たくさん書けば自然と身につくと思い込んでいることも原因です。文章はたくさん書いても上達しません。


経験を方法論に落とし込むプロセスが大事なのです。

ただ、ブログの改行と空白行の数については、これからも悩みそうです…

僧侶の”生き方”の選択



(日本の)仏教における教育現場では、しばしば僧侶とは”職業”ではなく”生き方”である、と教えられます。

例えば、(何でもよいのですが)医者という職業なら個人の人間としての境界を業務時間内であるか否かによって分けることができます。

しかし、僧侶はそうではなく、生活の全てにおいて僧侶らしい振る舞いが求められます。
話し方や食事作法、歩き方や外見的特徴に到るまで僧侶であることを自覚し続けなければならないのです。


往々にしてこのような話を聞くたびに、僕はどうしても違和感を感じてしまいます。


第一に、前回の投稿で、社会に見られる黙認された明らかな不正義についての話をしましたが、多くの指導する側の僧侶たちは、(完璧でなくとも)そのように振る舞うことに最善を尽くしているでしょうか。

そして今回主張したいこととして、第二に、一人の人間のアイデンティティが単一基準であるということは有り得ないということです。さらにそれだけでなく、アイデンティティの矮小化は悪質な影響を及ぼし得るということです。


生活における意志決定は、あらゆる帰属先や関係によって影響を受けるものであって、宗教だけによるものではありません(そして、そうであってはならないべきだと思います)。

したがって、僧侶であるというアイデンティティのみを基準として優先事項や行動を決めるといった”幻想”は、その人自身の在り方を見誤ることになります。


僕自身は、僧侶であることに加えて、大学院生であり、経済学や国際協力学を学んでいて、アジア人で、日本国民であり、リベラル主義者の男性であって、好きなNBAのチームはレイカーズである、などという複数のアイデンティティをなんら矛盾することなく持っています。

実際、(日本の)仏教の内部においても宗派や先達によって教義や信条に相当の差異があり、何をもって”生き方”とするのかということに決まりはありません。

それに対して、単一的に僧侶を規定することで導かれるのは画一化であり、それは僧侶や仏教に対する誤った見方を助長するだけでなく、本来多種多様である僧侶の生き方を否定することになります。


また、宗教に関するそのような誤った見方と分類は、宗教対立を扇動する一因となりかねません。
人々の多様性を度外視した単一的な分類によって、その他の部分で人々が共有しているアイデンティティの存在は無視されてしまいます。



アイデンティティにおける単一基準的な考え方のもっと身近な例は、開発途上国を訪れた人たちの感想によく見られます。

「ラオスの人々は常に笑顔で、本当の幸せとは何かについて考えさせられた。西洋的な価値観を押し付け彼らの文化を破壊してはならず、あの街並みや静かな雰囲気を残すべきである。」

初めて開発途上国を訪れて、誰もがこのように感じるところはあると思います。
しかし、我々は途上国の人々についての理解をより深めるべきです。

彼ら(ラオスの人々)を特定の分類法によって、単一的なアイデンティティ―今の暮らしに満足しており、静かな街並みを好む、親切な人々―のに閉じ込めてしまうことは、その国の本当の意味での発展を考える上で適切ではありません。


このような話は、信じ難いことにスターバックスでコロンビア産のコーヒーを飲みながら、iPad片手に行われているのです。

極端な話ですが、彼らにテレビの購入の支援をすると申し出れば、彼らはもっと笑顔になるかもしれません。
彼らが精神的に満足しているなどと考えるのは、彼らのことを本当に理解していないためです。

そして最も重要な点は、西洋的な価値観と呼ばれるもの自体、その基盤は世界の多様な国々からもたらされた貢献に深く影響されたものだということです。

文化の交流は決して単方向的ではないですし、彼らの多様性にもっと理解を深めなくてはなりません。



我々は複数のアイデンティティを持ち、それを自由に選択できるべきであるし、そのような社会が実現されるべきだと思います。


僧侶の”生き方”は認識するのではなく、選択するものなのです。

鳥飼誠一の正義論



踊る大捜査線が好きです。


人気の高い作品なのでアンチという方もいると思いますが、今回改めてなぜ踊る大捜査線が好きなのか考えてみると、この作品は非常に示唆に富むセリフやシーンが多く、普通の刑事ものドラマとは異なった視点でも楽しめる点が挙げられます。


例えば、いかりや長介さん演じる和久さんの名言の1つに、「正しいことをしたかったら偉くなれ」というものがあります。

下っ端は上からの命令に従うことしかできない、ということを嘆いたセリフであって、ありきたりと言えばそうですが、現実社会の理不尽を如実に表現していると思います。

ドラマの場合は権力による強制ということですが、肩書きも”存在しない偉さ”を作り出します。

極端な話になりますが、大学教授とホームレスが全く同じ主張をしても、納得する人数の差に違いが現れます。

これは僕が東大の大学院を志望した理由の1つでもあります。
”東大生”というだけで、多くの人が(他の場合より)聞く耳を持ってくれるのです。お得です。


例を出したら切りがないので、本題に入りたいと思います。



踊る大捜査線の中で最も好きな登場人物が、小栗旬が演じる鳥飼誠一です。

劇場版の三作目から登場し、昨年公開された劇場版FINALでは警察官でありながら犯行グループの1人として悪事に手を染めてしまいます。


そんな鳥飼の正義に対する考え方に僕は非常に共感を抱きました。
(殺人に加担したり、犯罪者は皆死罪にすべき等、もちろんそこまで過激ではありませんが…)


鳥飼は過去に起きた事件によって、「絶対に悪を許さない」という信念の下に行動しています。

FINALでは、その矛先は自らの保身を優先する隠蔽体質の警察上層部に向けられます。
そして最後には、マスメディアに対して告発状を送ることで警察上層部の不正を暴き、自らも逮捕されるという結末を迎えます。


鳥飼は警察組織の中にありながら、全く機能していない警察組織というシステム(そしてそれを変えることが出来ない政治に対しても)に絶望しています。


鳥飼の考える通り、警察組織に限らず世の中には明らかな不正義が溢れています。

なかなか知る機会もないと思いますが、お寺も”宗派”(大きく考えれば日本仏教)という組織に属しています。
一般の方が考えるより組織的で、権力構造も伝統や宗教という影に隠れて強力です。

おそらくどの社会にも、強権的で明らかな不正義があるのだと思いますが、だからと言ってそれは不正義が存在して良い理由にはなりません。

特に、鳥飼の属する警察や善事を心がける仏教においては、本来的に不正義があってはならないはずです。


自分自身がそれらの組織に属することで、明らかな不正義は慣習化し、それを防ぐルールも形骸化してしまうのではないでしょうか。
また、組織に属するということは権力構造の一部に組み込まれるということなので、それが仕事で生活に関わっていようものなら、上層部の命令は絶対ということになります。


仮に反発したとしても、出る杭は打たれるというように、それこそ明らかな不正義によって潰されてしまいます。

それが分かっていた鳥飼は、ある程度の地位まで出世した後に行動を起こしたのだと思います。

鳥飼が犯した罪は決して許されることではありませんが、鳥飼が考えていたことには共感できます。
優秀な鳥飼はそのまま口を噤んでいれば、将来的には上層部の一員になっていたかもしれません。
しかし、鳥飼は自らの心に嘘はつけなかったのです。



独裁国家のような性質が先進国の組織の中にも存在するとすれば、殺人を教唆した黒幕の鳥飼は、コンテクストを変えれば、殺人を教唆したが政治体制を変えたヒーローという風にも考えられます。

ちなみに、鳥飼と同じ手段では、独裁国家においては組織の体制を変えることはできません。なぜなら言論の自由、自由なメディア活動が制限されているからです。


踊る大捜査線は、民主主義におけるマスメディアの役割の重要性まで教えてくれるのです。
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