僧侶の”生き方”の選択



(日本の)仏教における教育現場では、しばしば僧侶とは”職業”ではなく”生き方”である、と教えられます。

例えば、(何でもよいのですが)医者という職業なら個人の人間としての境界を業務時間内であるか否かによって分けることができます。

しかし、僧侶はそうではなく、生活の全てにおいて僧侶らしい振る舞いが求められます。
話し方や食事作法、歩き方や外見的特徴に到るまで僧侶であることを自覚し続けなければならないのです。


往々にしてこのような話を聞くたびに、僕はどうしても違和感を感じてしまいます。


第一に、前回の投稿で、社会に見られる黙認された明らかな不正義についての話をしましたが、多くの指導する側の僧侶たちは、(完璧でなくとも)そのように振る舞うことに最善を尽くしているでしょうか。

そして今回主張したいこととして、第二に、一人の人間のアイデンティティが単一基準であるということは有り得ないということです。さらにそれだけでなく、アイデンティティの矮小化は悪質な影響を及ぼし得るということです。


生活における意志決定は、あらゆる帰属先や関係によって影響を受けるものであって、宗教だけによるものではありません(そして、そうであってはならないべきだと思います)。

したがって、僧侶であるというアイデンティティのみを基準として優先事項や行動を決めるといった”幻想”は、その人自身の在り方を見誤ることになります。


僕自身は、僧侶であることに加えて、大学院生であり、経済学や国際協力学を学んでいて、アジア人で、日本国民であり、リベラル主義者の男性であって、好きなNBAのチームはレイカーズである、などという複数のアイデンティティをなんら矛盾することなく持っています。

実際、(日本の)仏教の内部においても宗派や先達によって教義や信条に相当の差異があり、何をもって”生き方”とするのかということに決まりはありません。

それに対して、単一的に僧侶を規定することで導かれるのは画一化であり、それは僧侶や仏教に対する誤った見方を助長するだけでなく、本来多種多様である僧侶の生き方を否定することになります。


また、宗教に関するそのような誤った見方と分類は、宗教対立を扇動する一因となりかねません。
人々の多様性を度外視した単一的な分類によって、その他の部分で人々が共有しているアイデンティティの存在は無視されてしまいます。



アイデンティティにおける単一基準的な考え方のもっと身近な例は、開発途上国を訪れた人たちの感想によく見られます。

「ラオスの人々は常に笑顔で、本当の幸せとは何かについて考えさせられた。西洋的な価値観を押し付け彼らの文化を破壊してはならず、あの街並みや静かな雰囲気を残すべきである。」

初めて開発途上国を訪れて、誰もがこのように感じるところはあると思います。
しかし、我々は途上国の人々についての理解をより深めるべきです。

彼ら(ラオスの人々)を特定の分類法によって、単一的なアイデンティティ―今の暮らしに満足しており、静かな街並みを好む、親切な人々―のに閉じ込めてしまうことは、その国の本当の意味での発展を考える上で適切ではありません。


このような話は、信じ難いことにスターバックスでコロンビア産のコーヒーを飲みながら、iPad片手に行われているのです。

極端な話ですが、彼らにテレビの購入の支援をすると申し出れば、彼らはもっと笑顔になるかもしれません。
彼らが精神的に満足しているなどと考えるのは、彼らのことを本当に理解していないためです。

そして最も重要な点は、西洋的な価値観と呼ばれるもの自体、その基盤は世界の多様な国々からもたらされた貢献に深く影響されたものだということです。

文化の交流は決して単方向的ではないですし、彼らの多様性にもっと理解を深めなくてはなりません。



我々は複数のアイデンティティを持ち、それを自由に選択できるべきであるし、そのような社会が実現されるべきだと思います。


僧侶の”生き方”は認識するのではなく、選択するものなのです。

2 コメント:

shunsuke さんのコメント...

yahooニュースより失礼します。
ブログ拝見させていただきました。非常に興味深かったです。
帰国したら、またよろしくお願いいたします。

penny さんのコメント...

ご丁寧にありがとうございます。
当ブログの意義を確認できて幸いです。

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