人を伸ばす力



「休みの日は何してるの?」

なんて聞かれると少し困ります。

「家で読書かな」

こんなクソ真面目な回答できるはずもなく、「寝たりテレビ見たりかな…」とか言って(これも半分正解なのですが…)、その場をやり過ごします。

昔は読書が苦手でしたが、今では多分趣味の1つと言えると思います。

”趣味”という言葉が適切すぎるくらい本の読み方もまだまだ未熟で、自慢できる程の量を読んでいるわけでもありませんが、このブログでは随時読み終えた本の感想も書いていきたいと考えています。


今回は、最近の最たる関心である「内発的動機づけ」についての一冊を紹介します。


エドワード・L・デシ、リチャード・フラスト『人を伸ばす力』新曜社、1999年。


一見、自己啓発書かリーダーシップ論を思わせるようなタイトルですが、原題は『WHY WE DO WHAT WE DO』で、歴とした心理学の専門書です。

「内発的動機づけ」についての(今でも)フロンティアとされる良書で、研究成果を一般向けに分かりやすく解説したものと言えます。


内発的動機づけとは、活動することそれ自体がその活動の目的であるような行為の過程、つまり、活動それ自体に内在する報酬のために行う行為の過程を意味する。


「内発的動機づけ」とはつまり、”自ら学ぶ・やる気”であり、外から圧力をかけられることなく、自らの偽りのない気持ちに基づいて学んだり仕事をしようとする意欲と言えます。

「内発的動機づけ」に関心を持ったのは、この概念が開発途上国における貧困層の生活を理解する上で非常に有効だと思ったからです。
彼らの生活は非常に多くのリスクにさらされています。それは、貧困層にうつ病傾向が多いことからも分かるように、大きなストレスの原因になっています。
ストレスは彼らの生産性を低下させ、自制心を失わせます。彼らが抱える多くのリスクは彼らの”もう一度頑張ろう”という”やる気”を奪い、適切なインセンティブを見誤らせます。

僕は「内発的動機づけ」が彼らの生活により良いものをもたらすと考えています。


内発的動機づけは、豊かな経験、概念の理解度の深さ、レベルの高い創造性、より良い問題解決を導く。


同じ人間でも、内発的動機がある場合と無い場合では結果に違いがでることをデシは明らかにしています。

もちろん外的動機づけ―大部分は報酬―にも一定の有効性が認められますが、「内発的動機づけ」はより高い生産性をもたらすのです。また、外的報酬には「内発的動機づけ」を低下させるという致命的な欠点があります。


むしろ、人は金銭によって動機づけられる一方で、内発的動機づけが低められ、様々なマイナスの影響がもたらされるという点を問題にしたいのである。


デシは「内発的動機づけ」の源として、①自律性への欲求②有能感への欲求③関係性への欲求、を挙げ、社会的文脈―親、教師、管理職、または身近な大人など―からの十分な支援が必要であると述べています。

つまりは、自分のことを気にかけてくれる人の存在が重要と言えるのではないでしょうか。


こんな話を聞くと、プロスポーツや部活などのいわゆる鬼監督は少し時代遅れなのかなと感じますね。
スラムダンクの安西先生の、「君たちは強い」という指導は案外理に適っているのかも…

面白い映画とは何か?≠より面白い映画とは何か?



深夜に放送されている映画を(たまーに)観るのが好きなのですが、
先日『結婚記念日』という映画を観ました。

あらすじを抜粋します。

「ロサンゼルスのショッピングセンターを舞台に、中年夫婦の結婚生活の危機を描いたコメディ。夫であり弁護士であるニック役をウディ・アレンが、妻であり心理学者であるデボラ役をベッド・ミドラーが演じる。」


映画はコメディが比較的好きなのと、ウディ・アレンに興味があったので観てみたのですが、、、
僕の人生史に残るとても面白い映画でした!

上手く表現できませんが、ちょっと古い洋画で、明るいシーンが中心で、クリスマス前の雰囲気みたいなワクワク感があって、午前中に観たい映画、という感じでしょうか。

ちなみに原題は『SCENES FROM A MALL』で、『結婚記念日』とは日本語版のタイトルです。

洋画や洋書は日本語版が作成されるに当たって、タイトルが変更されることも多いですね。この映画のように意味的に全く違った訳し方をされる場合もありますが、内容を見ると納得してしまいます。


翻訳に関しては面白い?話があるので、また別の機会に書きたいと思います。



少し脱線しましたが、今回の投稿で書きたいことは、『結婚記念日』、この映画とっても面白かったからオススメだよ☆
ということではありません。


世界(または日本)で一番面白い映画とは何か。という問いには答えることができるのでしょうか。


興行収入、評論家による評価、超一流の監督作品など様々な基準や尺度があるとは思いますが、完全に世界(または日本)で合意される最も面白い映画というものは在り得ません。



それでは、より面白い映画とは何か。という問いには答えることができるのでしょうか。


「より」ということは、一般的に相対的な評価を表します。

AとBがあってAの方が「より」面白いという風に。


つまり、最も面白い映画というのが机上の空論であっても、最も面白い映画に一歩でも近づく、より面白い映画は判断できるということです。



そうすると、2つの選択肢の比較を続けることによって、最高の選択肢に辿り着くことは可能だろうか、という疑問が生まれると思います。


しかし、埋めることのできない情報ギャップや、情報が完全でも取り除くことのできない考え方の差などの不完全性は消すことができないので、たった1つの答えに辿り着くことはできないのです。



世の中は1つの哲学、1つの答えのみが存在しているわけではない、ということです。

ただ、『結婚記念日』は本当に面白かったです。

客観性と現実



イギリスの経済学者ウイリアム・ぺティ(1623-1687)は、その著書『政治算術』の中で、「私は比較級や最上級のことばを用いたり、思弁的な議論をするかわりに、自分の言わんとするところを数(number)重量(weight)尺度(measure)を用いて表現する」と宣言しました。

つまりぺティは、自らの議論を展開する時、それをデータによって裏付けなければならないと考えたということです。


大学で講義を受けていると、教授に質問されたり、議論を交わすことがありますが、「~だと思います」と答えるのは、ただ単純に意見を求められた時を別として、あまり好まれません。

例えば、「これは仏教哲学ではどう解釈されているの?」と聞かれたとします。

聞き手は、僕に対して曲がりなりにも仏教の専門家として意見を求めているわけです。このような場合に、僕は「~だと思うのですが…」などと解釈の幅を持った答え方をすることはできないし、聞き手にもそれは見抜かれてしまいます。

聞き手に追究されることは確実なので、もし分からなければ(自信を持って回答できなければ)、「わかりません」と専門家としては非常に未熟で恥ずかしい答えを出すことになります。


日常での会話で、「その根拠は?」などと友人に尋ねることはありませんが、みんな社会の一般通念としての根拠を持った会話を(僕の周りの人は)しています。きっと意識はしていませんが。


しかし、そんな時、僕の母親はいつも面白い洞察を与えてくれます。

ある時、家族でなぜか人間の三大欲求の話をしていました。
母はそれは食欲、性欲、金銭欲だと主張します。学生の時にそう習ったと。

弟は、それは絶対に違う。食欲、性欲、睡眠欲だと主張します。

母は自分の意見を絶対に曲げないタイプの人間なので、弟が最終的に諦める結果になりました。

僕は何も言わずに聞いていたのですが、弟の言い分が正しいと思いました。
有名なマズローの欲求階層説でも、生理的欲求が最も下層に位置することも知っていました。


しかし、なんとなく後から「三大欲求」をネットで調べてみると、必ずしも僕と弟が信じる三大欲求が正しいとはされていませんでした。軽く見ただけなので信憑性ゼロですが。

ここで言いたいのは、もし仮に自分の主張にぺティの言うデータや、学術的な根拠が存在しても、それを受け入れる人間ばかりではないということです。

決して母親のような人たちをバカにしているのではなく、現実にそういうことがある以上、それはある意味で正しいのだと思います。

コミュニティが違えば、正しいとされていることも変わる、ということは全く珍しくありません。
開発途上国では、よく知られるケースかもしれませんが、日本においてもかなり妥当すると思われます。


僕が最終的に主張したいのは、常識を疑ってみる、ということです。

自分のモノサシで計るのはよくないので、客観性を持たせる為にぺティの言うデータや学術的な根拠を使うわけです。
客観性を持たせることは正しいですし、僕は大学院生としてそれを追求しなければなりません。

しかし、現実で起っていることを理解することが同じくらい大切だと思います。

僕も母のようなケースがある度に―理不尽と言い換えてもいいかもしれません―腑に落ちないところもありながら、自らの驕りを反省するばかりです。

のりブログのはじまり



こんにちは。ブログ始めました。


脳内ではかなり前からブログの投稿が進んでいたのですが、
実際に書いてみるとなかなか言葉が出てきませんね・・・

初ブログの書き出しは後輩のブログから拝借させてもらいました。

というのも、僕がブログを始めた理由には彼が関わっているからです。


今回は初回ということで、ブログを始めた理由とその社会的貢献について書きたいと思います。
ん?ちょっと堅いなあ。なんか論文みたいな構成だし、もしかして大学院生?って思われた方いると思います。

そうなんですね、僕は現在東京大学の大学院に所属しています。専門はInternational Studiesです。それから実家がお寺で、宗派の本山で修行を終えたプロの僧侶でもあります。

まあ、それらの話はそのうちするとして、ブログを始める上での自己紹介はこんなところでしょうか。

ブログ本当に初めてなので、なんだか変なテンション?ですみません・・・



本題に入りたいと思います。


僕がブログを始めた理由は3つあります。

①後輩のブログに影響されたため

②自分の考えを形として残しておきたいため

③大学院を受験する方の役に少しでも立つため


①後輩のブログに影響されたため

このブログの初めに書いた彼ですが、現在留学中で様々な体験や考えを綴ったブログを書いています。
僕もイチ読者なのですが、彼に限らず、僕の後輩たちは「発信」がとても上手です。「発信」することは、時に誰かを勇気付けたり、感動させたり、また、具体的に何かの行動を起こさせたりして、「発信」を受ける人々の内発的動機付けを促します。
僕も勉強している時、どうしてもやる気が起こらないことがありますが、そんな時に後輩の頑張っている姿には触発されます。
その頑張りや、素晴らしい体験などをシェアするツールとしてブログは非常に有効だと思います。
僕は自ら「発信」することや体験をシェアすることが少し苦手なので、後輩に後押しされてブログを始めることができました。この機を活かして「発信」できればと思います。


②自分の考えを形として残しておきたいため

そのままですが、普段の生活から国際問題に到るまで、現在の自分が考えたことを忘れたくないと思いました。物事に対する考え方は常に変化しますが、スナップショットの自分を少しでも残して、後で読み返して恥ずかしくなりたいと思います。


③大学院を受験する方の役に少しでも立つため

当初はこれをメインにとも考えましたが、よくよく考えてみると、僕程度の学力では何の助言もできないことに気付きました・・・
僕は受験の時、藁にもすがる思いで対策などが書かれたブログを見て、少し元気が出たりしたので、ほんの少しでも皆さんの勉強の役に立てればと思います。



いくつか、ブログを書き続けるために許して?ほしいことがあります。

文章を書くという作業は同じことを話す作業よりかなりエネルギー(気)をつかいます。
日本語の正しい文章を書く良い練習になりますが、それだと時間がかかるし、疲れてしまうので、
そういうのはあまり気にせず書きます。

また、①に反するようですが②を優先したいため、多少ネガティブな感じを受けることも書くかもしれません。

それから、またまた①に反するかもですが、基本的にはほそぼそとやっていきたいかなと思ってます。


とても長くなりましたが、後押ししてくれた何人かの友人のおかげで、やっと重い腰を上げることができました。
いつまで続くかわからないけど、温かく見守って頂ければ幸いです。

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