客観性と現実



イギリスの経済学者ウイリアム・ぺティ(1623-1687)は、その著書『政治算術』の中で、「私は比較級や最上級のことばを用いたり、思弁的な議論をするかわりに、自分の言わんとするところを数(number)重量(weight)尺度(measure)を用いて表現する」と宣言しました。

つまりぺティは、自らの議論を展開する時、それをデータによって裏付けなければならないと考えたということです。


大学で講義を受けていると、教授に質問されたり、議論を交わすことがありますが、「~だと思います」と答えるのは、ただ単純に意見を求められた時を別として、あまり好まれません。

例えば、「これは仏教哲学ではどう解釈されているの?」と聞かれたとします。

聞き手は、僕に対して曲がりなりにも仏教の専門家として意見を求めているわけです。このような場合に、僕は「~だと思うのですが…」などと解釈の幅を持った答え方をすることはできないし、聞き手にもそれは見抜かれてしまいます。

聞き手に追究されることは確実なので、もし分からなければ(自信を持って回答できなければ)、「わかりません」と専門家としては非常に未熟で恥ずかしい答えを出すことになります。


日常での会話で、「その根拠は?」などと友人に尋ねることはありませんが、みんな社会の一般通念としての根拠を持った会話を(僕の周りの人は)しています。きっと意識はしていませんが。


しかし、そんな時、僕の母親はいつも面白い洞察を与えてくれます。

ある時、家族でなぜか人間の三大欲求の話をしていました。
母はそれは食欲、性欲、金銭欲だと主張します。学生の時にそう習ったと。

弟は、それは絶対に違う。食欲、性欲、睡眠欲だと主張します。

母は自分の意見を絶対に曲げないタイプの人間なので、弟が最終的に諦める結果になりました。

僕は何も言わずに聞いていたのですが、弟の言い分が正しいと思いました。
有名なマズローの欲求階層説でも、生理的欲求が最も下層に位置することも知っていました。


しかし、なんとなく後から「三大欲求」をネットで調べてみると、必ずしも僕と弟が信じる三大欲求が正しいとはされていませんでした。軽く見ただけなので信憑性ゼロですが。

ここで言いたいのは、もし仮に自分の主張にぺティの言うデータや、学術的な根拠が存在しても、それを受け入れる人間ばかりではないということです。

決して母親のような人たちをバカにしているのではなく、現実にそういうことがある以上、それはある意味で正しいのだと思います。

コミュニティが違えば、正しいとされていることも変わる、ということは全く珍しくありません。
開発途上国では、よく知られるケースかもしれませんが、日本においてもかなり妥当すると思われます。


僕が最終的に主張したいのは、常識を疑ってみる、ということです。

自分のモノサシで計るのはよくないので、客観性を持たせる為にぺティの言うデータや学術的な根拠を使うわけです。
客観性を持たせることは正しいですし、僕は大学院生としてそれを追求しなければなりません。

しかし、現実で起っていることを理解することが同じくらい大切だと思います。

僕も母のようなケースがある度に―理不尽と言い換えてもいいかもしれません―腑に落ちないところもありながら、自らの驕りを反省するばかりです。

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