面接官に予測能力はあるか?



未だ見ぬ就職活動には日頃より戦々恐々としていますが、周りを見る限り、決まる人と決まらない人の間には1つの大きな違いがあると思います。

それは、その人が有能であるか否かということです(当たり前ですが…)。

肝心なのは何をもって有能かということです。
僕は、その条件を自制心と観察力があることだと考えています。


例えば、有能な人は自制心があるので物事を先延ばしにしません。

人間には、現在に近い報酬を遠い将来の報酬よりも高く評価する傾向―双曲割引と呼ばれる―があり、つまり夏休みの宿題を今日から始めればいいものを、どんどん先延ばしにしてしまいます。

有能であるということは、必ずしも惑わされない人のことを言っているのではありません。
むしろ、その誘惑に抵抗できる人を指しているのです。

そのような人たちは、メールの返信を先延ばしにしませんし、飲み会の幹事を任せたらすぐに行動を起こします。

その結果、メールや飲み会に限りませんが、何事においても(時間を十分に使えるので)質の高い結果を出すことができます。
反対に自制心が弱い人たちにとって、エントリーシートや企業研究は夏休みの宿題のようなものです。


有能であるもう1つの条件は観察力があることです。

観察力のある人は、自分が現在何をすべきなのか明確に理解しています。
つまり先読みができるということなので、無駄を省き、リスクを回避することができます。

先読みできる(気付いてしまう)が故に、人より多くの仕事をこなさなければなりませんが、全体像を把握することができるので、全ての場面において重宝されます。

そのような人たちは、何かを頼んでも要求以上の仕事をしますし、その場の雰囲気で適切な行動を理解することができます。

その結果、いわゆる”使える”人材として上司や先輩に好まれ、安心して仕事を任せられる人間であると認識されます。
反対に観察力が無い人たちは、当たり前に行うべき仕事や自分のちょっとした失言に気付くことができません。


以上の条件を満たす人ほど、就職活動において良い結果を残しているように思えますが、実際に企業の面接官は企業にとって役に立つ人材が誰かを正確に判断できるのでしょうか?


多くの実証研究が示すところによると、企業幹部がそのような判断が得意であると答えるのとは裏腹に、人間は一般にこうした作業に向いておらず、面接担当者の予測能力はほとんどゼロに近いことが分かっています。

実験によれば、面接をせずに履歴書や推薦状、志望動機の作文などだけで採用を決めるほうが、面接もして決めた場合より結果として良い人材を採用できるそうです。

面接をすることで面接官は自分の判断により自信を持つようになりますが、現実の成果としては逆に作用してしまいます。
要するに、面接官の直観はほとんど当てにならないということです。


それでは、先述の有能な人々が結果を残しているというのは、単に思い過ごしなのでしょうか?


そうではありません。
面接官の判断は当てになりませんが、有能な人々はそこに至るまでに最善を尽くし、また環境的な要因から、彼らは自信を持って面接に臨みます(self-efficacy)。

そのたたずまいや声の調子から、面接官は直観が関与することのできない、脳のもっと深い奥の部分で―無意識的に―彼らを選択してしまうのです。


それは、結局は面接官の判断が正しいということでしょうか?


そうではありません。
現実に就職できるのは有能な人だけではありませんし、有能な人だけが企業で結果を残す訳ではありません。

つまり面接官の直感では、その大多数の人々を判断する上で過ちが生じてしまうということです。

例えば、縁の下の力持ちタイプの人は、集団内における円滑性という点などで非常に重要であり、企業の原動力とも言える存在です。
そのような貴重な人材を、面接官の直観は正確に判断することができません。


初対面の人に対して抱く印象が、その人の全てでは無かったという経験は誰にでもある日常的なことだと思います。
また、外見的特徴が全面的に出る面接という行為において、あらゆるバイアスから逃れることは困難です。

そのような状況において、自信を持って「正しい判断ができる」と果たして言えるでしょうか?

マスメディア懐疑論



昨日、修理に出していたスマホが戻ってきたという連絡を店舗の方から受けました。

その際に、「お貸出ししていました”だいがえき”をお持ちください」、と言われました。

「おいおい、”だいがえき”じゃなくて”だいたいき(代替機)”だろう」と思ったのですが、
「あれ?もしかしたら、専門用語でそう呼ぶのかな?ひょっとすると…」

すぐに調べましたが、そんな訳はなく普通に”だいたいき(代替機)”でした。


職業柄、日常的に使う言葉を間違えて覚えていることは恥ずべきことですが、それ以上に僕は自分に自信が持てなかったことが残念でした。

言い訳をするならば、相手の方がそれに関してのエキスパートであり、また、オペレーターが間違える訳がないという先入観があったことです。


先入観によって、大した精査もされず我々の目や耳に入る情報はたくさんあります。


マスメディア(主に新聞やテレビ)による報道は、その最たるものだと思われます。


特に、今でこそ下火になりましたが、昨年の領土をめぐる中国や韓国との対立問題におけるマスメディアの報道の在り方には疑問を感じるばかりでした。

例えば、以前より減少傾向にあった日中間の貿易や、全く関係の無い理由で起こったデモを、今回の対立問題と結び付けるような記事が目立ちました。


少し話の本流から逸れますが、以下は日本と中国の海外旅行者数の推移を表したグラフです。




日本人の旅行者数は左図の青線で表されています。

2つを比べて何がわかるでしょうか。

僕は中国のグラフを見て、少し違和感を感じました。
グラフがとても綺麗な右肩上がりになっているのです。

ここで日本のグラフをあえて出したのは、一般的な傾向を見るためです。

このような統計では、少なからず2008年や2009年に、リーマンショック以降の世界的な金融危機の影響が表れます(ちなみに日本の2003年の激減はSARSの影響)。

しかしながら、中国の統計は成長を誇示するかのように完璧な右肩上がりです。
このような統計には、中央政府による情報操作が入っている可能性を疑うべきです。


右図は新聞記事から引用したものですが、このような情報が何の疑いもなく掲載されています。

我々は子供の頃から教育現場において、新聞を読みなさい、ニュースを見なさい、と教えられているので、多くの人は新聞やニュースの情報が誤りである可能性などほとんど感じていません。


『日本農業への正しい絶望法』の中で、著者の神門善久は、マスメディアの大衆迎合的な性格が日本農業の衰退を助長していると指摘しています。



さらに、マスメディアは公共的精査を通して互いの正しい認識・現状に対する深い理解を促進します。
これは、アイデンティティの単一的な矮小化を避ける上で非常に重要な役割を果たすことを意味します。


本来的にそういったことが期待されるマスメディアが、現状において逆のベクトルに働いてしまっていることは悲しむべきことです。

マスメディアが大衆迎合的であるということは、我々にも一因があるということです。
中国に対する偏重的な報道などは、そればかりが理由ではないと思われますが、我々にもより高いリテラシーが求められます。


メディア関連の仕事をしている人たちの職場環境はどうなんでしょうか。
原稿の締め切りに追われて、事実の正しさは最優先ではないかもしれません。

そう考えると、職種は違えど忙しすぎて、”だいがえき”が間違えていることに気付いていないか、まさか、顧客にとってその方が分かりやすいと思って、わざと”だいがえき”と言っている可能性がありますね…

be different from ―東大生編―



東大を初めて訪れた時に驚いたのは、その規模の大きさです。

まず、とにかく敷地面積が広い。
地図アプリで見ると、なんとその隣の上野公園(上野動物園、不忍池含む)と同じくらいあるではないか!なんかすごい!

さらに驚きなのが、構内の飲食店の数。
学食以外にレストランやカフェがたくさんあります。有名コーヒーチェーンだけで、ドトールが2つもあるし、タリーズ、スターバックスまであります。スタバが1つも無い”県”もあるというのに…

大学院から東大へ入学した僕には、驚くことばかりの毎日です。


そこで今回は、be different from ―東大生編― と題しまして、東大生と他の大学の学生との違いについて取り上げたいと思います。

あくまでも僕個人の考えになりますが…


「学業」

普通は?、休講だったり講義が早く終わるとちょっと嬉しいですよね。

東大生の場合は逆です。

休講には不平を並べるし、講義が早く終わって教室がざわつくのは、早く終わって嬉しいからではなく、早く終わったことに不満があるからなのです。


また、空き時間の使い方についても違いが見られます。

少し早く教室に着いたら、僕は大抵の場合スマホをぼーっと眺めています。

しかし、東大生は新聞や本を読んでいるので、僕は恥ずかしくなってスマホをしまい、講義の復習をすることにしています…


さらに、東大生は基礎をかなり重視します。

講義に対する感想を述べる時によく耳にしたのが、「もっと基本的なことを教えてほしかった」ということでした。
また、就職する院生の話を聞くと、「外資もあったけど、日本の大手にした。基礎を叩き込んでくれるからね」、とのこと。

確かに、僕も基礎はかなり重視するタイプなので、少し共感しました。


「電子機器」

東大生の7、8割は、講義のノートをパソコンやiPad等で記録します。

学部の頃の大学では、パソコンなどを持ち込んでいる人はいなかったし、いても数人程度でした。

教員側の考え方も多少違うのか、例えば、パソコンや携帯を机の上に出していることを嫌う方もいますが、東大の教授ではまず見たことがありません。


「コミュニケーション」

僕が最も驚いたのは、大学院のゼミでの初めての飲み会でした。

一人ずつ順番に英語でストーリーを考えて話を作る、というゲームをした時は、来るところまで来たなと感じたものです。


そして、最も大きな違いは、話をする時の慎重さです。

知識が豊富な人と話す時は、簡単に物事を言いきることができません。

相手の得意な分野に関しては、まず下手なことは話せませんし、自分の分野に関しても、曖昧なことや憶測で物を述べると、当然追及される(または呆れられる)ので、極力失言がないように慎重に話さなければならないのです。



何やら偏見に満ち溢れた3つの違いをまとめてみましたが、同時に意外とステレオタイプの学生は少ないという印象も受けました。

また、上では特に述べませんでしたが、違いの1つとしてself-efficacy(自己効力感)が挙げられると思います。

self-efficacyとは、自己に対する信頼感や有能感のことで、「自分にはここまでできる」という予測の程度のことを言います。

self-efficacyは達成体験などの経験によってもたらされるので、東大生と他の大学の学生では、その高低に違いが見られます。

それは、他の大学の学生のself-efficacyが特別低いという訳ではなく、東大生の場合、もとより高いself-efficacyが、東大生であるという矜恃によって一層強められるのです。


近年、東大生の学力低下が叫ばれていますが、その一因とならぬよう、未だお客さん気分の抜けない僕ですが日々精進したいと思います。
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