暇人のつぶやき



大学生あるあるだと思うのですが、予定がいつも埋まっている人っていませんか?

予定が埋まっているのは決して悪いことではないのですが、
「今月は○日と×日しか開いてない」とか「今月の○日会える?」とピンポイントで聞かれると、そんな無茶苦茶な…と思ってしまいます。

さらにあるあるを言えば、そういった人たちは概して、「刺激を受けたい」や「成長したい」という理由から行動的になっているような気がします。


もちろんそういった人たちを否定する訳ではないし、大学生は勉強に、遊びに、バイトに、行動範囲が広がり忙しいものです。

しかし、経験則から述べると、僕の場合は手帳のスケジュールが全部埋まっていることにただ充実感を抱いていただけだったのだと、今は思います。


あえて言うならば、逆説的ですが超多忙な人は成長の機会を逸しています。


刺激や成長を求め、人と会ったり、何かの活動に参加したりすることは素晴らしいことです。
しかし、その経験を内在化するためには自己分析が必要です。


次から次への”素晴らしい経験”は、その経験を表面上の満足感に変えてしまいます。

いくら予定を詰めて、人と会ったり、何かの活動に参加しても、”それだけ”なら長いスパンで見ると当人は何も得ることができません。


大きな活動をしている人や肩書きを持った人の言葉には力があります。
それは、その本人たちが何かを成し遂げたという結果があって、その過程に努力があるからです。

その言葉を聞いただけでは何の意味もありません。
それを内在化しなければ、「成長」は有り得ないのです。


そのプロセスとして自己分析は重要です。
つまり、得たものを整理する時間が必要なのです。


「刺激を受けた」とよく言いますが、何に対する刺激なのでしょうか。

おそらく何らかの努力目標を達成する意欲に対する刺激ということだと思いますが、
もし成長したいなら、人と会ったり、何かの活動に参加することも良いですが、それ以上にやるべきことがたくさんあるはずです。


例えば、東大の大学院に入学する上で重要なのは、東大の教授に会うことや東大の学生団体やシンポジウムに参加することではありません。
最後に試されるのは結局どれだけ当人が机に向かったかということです。


「刺激を受けたい」や「成長したい」が口癖の人はなかなか成長できなさそうですね。

驚きの介護民俗学



最近赤ちゃんと触れ合う機会があったのですが、僕は最初赤ちゃんと一定の距離を置いていました。

それを見た赤ちゃんの母親が、「赤ちゃん苦手?」と聞いてきました。

僕は、「いや、赤ちゃんも初めて会った人間に警戒しているだろうし、赤ちゃんに対して失礼なので。」と、冗談のような回答をしました。

しかし、これは割と僕の本心です(赤ちゃんに対してそこまで厳密ではありませんが…)。


赤ちゃんと僕の関係は非対称的です。
赤ちゃんは僕が赤ちゃんに対して何かをすることから任意で逃れることができません。
赤ちゃんは僕に対して常に受動的であり、僕は赤ちゃんに対して常に能動的です。

仮に赤ちゃんが「こいつイヤだなあ、近づかないでよ」と思ったとしても、その願いは非対称的な関係性から自ずと叶いません。

つまり赤ちゃんに対する”あやし”や”遊び”といった行為には暴力性が内包されているのです。


そんなことを考えた僕は、赤ちゃんが僕に対して少し心を許すまでは―赤ちゃんに最低限の敬意を払い―、一定の距離を置いていたという訳です。


今回の書評では、このような非対称的な関係と敬意について考えさせられた本を紹介したいと思います。


六車由実『驚きの介護民俗学』医学書院、2012年。


民俗学者である著者が、老人ホームという介護の現場にフィールドを移し、その現場における民俗学的なアプローチの有効性についての深い洞察と鋭い自己分析を著しています。

介護の現場における民俗学的なアプローチが「介護民俗学」ということですが、それは主に”聞き書き”と呼ばれる民俗学の手法を用いることで実践されます。


聞き書きは、対話の中から調査対象者の言葉を聞き、書き留めることで民俗事象を捉えようとする。


認知症を患っている方でも、”聞き書き”によってその言葉に真摯に向き合うことで彼らと対話し、彼らの行動に対する深い理解を得ることができるといいます。


これまで介護の現場では、認知症の利用者の「心」や「気持ち」を察しようとはしていたが、語られる言葉を聞こうとはしてこなかったということなのだろうか。(中略)しかし民俗学における聞き書きのように、それにつきあう根気強さと偶然の展開を楽しむゆとりを持って、語られる言葉にしっかりと向き合えば、自ずとその人なりの文脈が見えてきて、散りばめられたたくさんの言葉が一本の糸に紡がれていき、そしてさらにはその人の人生や生きてきた歴史や社会を織りなす布が形作られていくように思う。


ここで非対称的な関係におかれているのが、介護される利用者と介護する職員ですが、介護現場における”聞き書き”(介護民俗学)は、その関係を一時的に非対称から解放し逆転させるダイナミズムであると著者は述べています。

つまり、日常的に受動的で劣位な「される側」にいる利用者が、「話してあげる」「教えてあげる」という能動的で優位な「してあげる側」になるということです。

反対に職員(著者)は、「教えを受ける側」になる訳ですから、そこには必然的に敬意が生じるはずです。


利用者と職員、赤ちゃんと僕、こういった非対称的な関係性は開発に関する文脈で多く登場します。
途上国と先進国、開発される側と開発する側、現地住民とNGO、これらの関係性においても相手に対する接し方が非常に重要だということが分かります。

非対称的な関係性においては、内包される暴力性から免れることは不可能です。

しかし、”驚き”と敬意を持った”聞き書き”が、相対的に力の弱い認知症の方のより豊かな生活を引き出すように、開発においても相手に対する接し方によって、相手(「される側」)に(良い)変化をもたらすことができます。


これからは赤ちゃんではなくて”赤さん”と呼ぶべきなのかもしれません…

宅飲みは割り勘にするのが吉



経済学を少しかじっていると日常生活において役立つことがあります。


というか、経済学は効率的な資源配分の追究とその選択に関する学問ですから、経済学を学べば自分の生活を良くするヒントを掴める、というのは当たり前かもしれませんね。


さらに言えば、学問とは社会に還元する性質を持っているので、もちろん全ての学問がそうだと言われればそうなのですが、経済学は僕たちがよく遭遇するこんな場面においても役立ちます。



先日、後輩に招かれて宅飲みに参加しました。
美味しい鍋とお酒を用意してくれていて、とても楽しい会でした。

楽しい時間が過ぎるのは早く、ほとんどの後輩たちは帰宅し、遅れて参加した僕は費用を支払おうと、いくらか尋ねました。


「5000円頂いてもいいですか?」


との想定外の返答に、正直宅飲みということで甘く見積もっていたので少し驚きました。

なぜ宅飲みにしては高めの5000円だったかというと、その会の参加者は全員で7人で、その内訳が大学院生の僕(5000円)と、大学4年生の後輩が2人(3000円ずつ)、2年生が3人(1000円ずつ)、1年生が1人(無料)だったためです。

もちろん支払いましたが、僕は何とも言えない―いつもなら抱くことのない―不満足感を抱きました。


ちなみに、僕は別の後輩と(店で)飲んだ時は、10000円(会計の半分以上)を出しました。
ここで言いたいのは、僕の選好として、僕が極度の”ケチ”ではないということです。


ここまでが前提条件になります。


以上の状況から全員の幸福度をより高めるためにはどうすればいいのでしょうか。
(=または、なぜ僕はいつもなら抱くことのない不満足感を抱いたのでしょうか。)


この問題に対し、経済学は重要な示唆を与えてくれます。

行動経済学になりますが、「プロスペクト理論」によると、損失は同じ額の利得と比べるとその絶対値は2倍から2.5倍も大きいとされています。


つまり、それを2倍と仮定して単純に計算しても、
|-(5000×2)|>|+(3000×2)+(1000×3)+(0)| なのでマイナスの方が1000大きくなってしまいます。


これは何を示すかというと、僕が支払った5000円分の不幸度と後輩たちの総額の幸福度では、不幸度の方が大きい、つまり非効率的な配分であると言えます。


もしこれを、僕の5000円の支払いを4500円にして、残りの500円を1年生の後輩に支払ってもらうとすると、
|-(4500×2)|<|+(3000×2)+(1000×3)+(500)| プラスの方が500大きいですね。


つまり幸福度の方が高い、効率的な配分であると言えます。



経済学においては以上のような答えが導き出されますが、宅飲みという特殊な状況を考えた場合、仮に、全員が等しく支払う―割り勘する―と、一人当たり2000円になります。
これは全員にとって宅飲みの許容範囲額ではないでしょうか。

特殊性を考慮すると、このような配慮が必要な場合もあります。


また、前回の投稿で取り上げた「内発的動機づけ」にも関わる問題であると言えます。
外からの強制は「内発的動機づけ」を低下させるので、先輩として多めに支払う”不完全義務”を負っている僕に対して、予め決まった支払い額を提示するよりは、総額でいくらだったかを伝えた方が良かったかもしれません。


それ以外にも、例えばその日は宅飲みの前に用事があって食事を済ませていたので、あまり鍋もお酒も消費しなかった。買い出しに参加できなかったので、完全に受動的な支払い状況になっていた。
など、考えられる点は実際は多々あるのですが…

とは言え、経済学が出した答えから我々が学ぶことは多いと思います。
何となくですが、5000円なら高いけど4500円とか4000円ならいいような気もする、と言われたら納得できませんか?



ここから導き出される教訓は、

①宅飲みという特殊な状況(通常は費用が抑えられる)において、何人かが高額な支払いをするのは得策ではない=宅飲みは割り勘が吉。
もし、何人かが高額な支払いをする場合は、効率性が達成されているかに留意する。

②先輩や上司などの「内発的動機づけ」を低下させないように上手く支払わせる。


と、経済学(と心理学)を学ぶとこのような面白い(ケツの穴の小さい)考察ができます。
しかし、ありふれた日常のヒトコマをいちいちこうやって考察してしまうのは、大学院生の悲しい性ですかね…


このように書きましたが、実際はできれば全額支払ってあげたいぐらいかわいい後輩で、わざわざ宅飲みに誘ってくれたり、鍋を取り分けてくれたり、彼らの優しさに対して僕の支払いは本当は”完全義務”でありたいのですが…

今回は経済学の面白さを表す一例に取り上げさせてもらいました、悪しからず。

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